当ブログの初期にも(HaKaTa百貨店 ゲスト:松井珠理奈)で書いたが、
知的好奇心旺盛なはるっぴ。
やっぱりおバカな子よりも聡明な子の方が私は好き!
(別にBKAセンターをdisってるわけじゃないですよw)

哲学はすべての学問の根源である知的好奇心の探究をする学問だから
“智愛学”とも言われています。別に“愛知県”は関係ないけど…
今日明日の名古屋ドームがんばって欲しいな。

で哲学に話を戻して、


「哲学(Philosophy)」という、ギリシアに由来するこの語のそもそもの意味は、よく知られているように、「愛智」つまり「智を愛すること」である。それは、何か別のことのために、つまり、何かの役に立つから「智を愛する」のではない。そうではなくそれは、純粋に「智を愛する」、ただ徹底的に考え抜きたいが故に、ただ徹底的に知りたいが故に、ただそのことの故にのみ、「智を愛する」ことである。

もっともこう言えば、単に「哲学」のみならず、時にその対極と捉えられる「科学」もまたそうではないか、と言われよう。「科学」――とりわけ基礎科学――もまた、同様の「愛智」の営みではないか、と。たしかに、そうでもあろう。実際、哲学は時に「科学の先駆け」とも見なされる。けれども両者の間には、やはりある本質的な相違が存している。というのも、科学において問題は、徹底して一般性・客観性だからである。ここにおいては、個別性もしくは主観性は徹底して排除される。科学的知識に「私」を持ち込むことは、厳禁である。だからこそそれは、万人が共有できる道具としての「知識」でありうる。しかし、かのソクラテスは、こうした「知識」には全く無関心であった。「私」自身の投影しない知――単なる一般的客観的な知――は、根本的には知(智)の名に値しない。本当の意味での智とは、自ら(「私」自身)の智であり、「私」がその智を自ら生きるのでなければならない。「愛智」の「智」とは、そうした智であり、「愛智」つまり哲学の営みとは、そうした智を徹底して考え抜き、徹底的に知ろうとする――言うならば、徹底して智を生きようとする――営みである。

だからこそまた、カントはこう言った。「哲学は学ぶことができない。学びうるのはただ哲学することだけである」、と。「私」自身の智は、「私」自身において考え抜かれなければならない。人から教えてもらうことはできない。ただ、どう考え抜いたらいいのか(哲学の仕方)を、私たちは偉大な哲学者達(古典)との対話を通して学びうるのである。

~東大哲学研究室のPR文の冒頭~


なにやら堅苦しい文面ですが、要は哲学は人から教えてもらうものではなく、自分自身で考え抜いて答えを出す行為が“哲学すること”で、その哲学の仕方を先人たちから学びますよって事。

人間とは何か?
地球温暖化を考えるとエアコンを使っていいのか?
何故、暑いのに辛いものを欲するのか?
さっしーは何故、総選挙で1位になれたのか?
どうして兒玉遥は絶世の美女なのか?


これらの問いに100%の答えを求めるのではなく自分なりの答えや意見を出すこと
それが哲学。

実はこのブログも“私はなんではるっぴが好きになったのか?”を突き詰めたくて
自分自身の気持ちを時系列的に記録しておくことがそもそもの発端でした。
まぁ自分自身の中では色々と答えは出てるのですが、
・こんなに魅力的な子は他にはいない。
・だからはるっぴの事をみんなに知ってもらいたい。
・“推し”ってfavorite(お気に入り)の意味合いよりもrecommend(推奨する)の事だったのかと実感。

個人的には20歳~24歳あたりで“人生とは何か?”の
悟りは開けた(あくまでも個人的答えが出ただけですが)ので
それ以降の人生は意外と悩みなく生きてこれましたw
(苦労は絶えませんが…orz)

いきなり強引にまとめると、はるっぴには是非、自問自答を繰り返して素敵な女性に成長してもらいたいものです。

では、今から出発して壮絶なUターンラッシュに突撃したいと思います。( ̄_ ̄|||)